※本記事は、当社がこれまでに自治体や金融機関から受託して行ってきた事業承継の無料相談をもとに、ストーリー形式で再構成したものです。お話しくださったご相談者とその会社が特定されることのないよう、社名や人名を伏せ、記事に応じて内容の一部に手を加えています。登場する企業・人物は、特定の企業・個人を示すものではありません。
背景:売上の約7割を1社に頼る、首都圏の町工場
A社は首都圏にある金属部品加工の町工場です。従業員は10名未満。加工から検品、出荷までを社内で一貫して担える体制を強みとし、売上の約7割は特定の1社への納品が占めていました。
社長は70代。後継者のBさん(40代)は社長の娘婿で、約20年にわたり工場長として現場を支えてきました。現場業務には精通している一方、経営や財務の経験はほとんどありません。
ある日、Bさんは社長から突然「社長になれ」と告げられます。しかし、会社の財務状況に不安があったBさんはいったんこれを断り、決算期が終わった後に承継する方向で社長と合意しました。そのうえで、ちらしで知った事業承継の訪問相談に申し込んだのです。
相談の経過:決算書を開いて見えてきたこと
初回の相談で整理された会社の姿は、楽観できるものではありませんでした。年商は6,000万円台ながら、直近期は数百万円規模の赤字。設備の稼働率は2〜3割程度にとどまり、金融機関からの融資も止まっている状況でした。訪問相談の担当者は、まず直近数期分の税務申告書を入手し、財務の実態を正確に把握することから始めるよう助言しました。
2回目の相談でBさんが決算書を持参したことで、課題の核心が見えてきます。赤字の主な原因は、すでに業務に従事していない社長夫妻への年間900万円前後の役員報酬でした。この報酬が家族の個人的な借入の返済に充てられているという事情も分かりました。会社は900万円弱の債務超過にあり、地域金融機関から4,000万円規模の長期借入がありました。
一方で、株式はすべて社長が保有しており、債務超過のため株価は実質ゼロの状態でした。事業承継士は、役員報酬を適正な水準に見直せば黒字化が見込めること、株式の承継や社長個人名義の工場建物の取り扱いにも道筋があることを説明しました。Bさんは「どんぶり勘定の経営から脱却したい」と語り、自治体主催の後継者塾への参加も即決しました。
ただ、気がかりな点もありました。社長自身が承継への当事者意識に乏しく、専門家との面談を拒んでいたことです。
転機:代表就任の直前に判明した危機的な実態
3回目の相談は、代表者交代の予定日を目前に控えたタイミングでした。最新の決算書を精査すると、状況は大きく悪化していました。債務超過は約1,500万円規模へ拡大。会社の預金口座の残高は合計で数千円しかなく、社長が個人的な借金で場当たり的に資金を注ぎ込んでいる実態も判明しました。帳簿に載らない債務が増えている可能性も否定できません。さらに、通帳には税金や社会保険料の未納をうかがわせるメモが貼られていました。未納が事実であれば、自治体の事業承継関連の補助金など公的な支援制度の申請にも支障が生じかねない状況でした。
見積りや主要取引先とのやり取りは依然として社長が独断で行い、業務の引き継ぎは進んでいません。Bさんが財務悪化の説明を求めても、社長は「大丈夫だ」と繰り返すだけで、根拠は示されませんでした。売上の大半を占める取引先からの受注も大きく減っていましたが、社長はその原因を把握していませんでした。
Bさんは「このままでは会社を継げない」と強い不安を口にしました。専門家は、リスクが可視化され対策の目途が立つまで、代表取締役への就任と株式の譲渡を一旦保留すべきだと助言しました。対外的に挨拶状を出していても、法的な手続きの前であれば撤回は可能です。そのうえで、顧問税理士に面談を申し入れて資金繰りや債務の実態を証憑に基づいて確認すること、決算申告書や月次試算表、通帳の写しを入手すること、そして「不透明なままでは責任をもって引き継げない」という明確な意思を社長に伝えることを助言し、この時点での支援を区切りました。
この事例からの教訓
1. 引き継ぐ前の財務把握は省略できない 決算書、通帳、顧問税理士への確認。基本の確認を一つ重ねるたびに、この会社では新しい事実が判明しました。口頭の説明や感覚ではなく、証憑に基づいて実態を把握することが承継の出発点です。
2. 現経営者の誠実な情報開示が承継の絶対条件 株式や不動産の移転、借入の引き継ぎなど、承継の手続きは現経営者の協力なしには進みません。情報が開示されないままの承継は、後継者が見えない債務とリスクを一方的に背負うことにつながりかねません。
3. 「一旦立ち止まる」ことは失敗ではない 就任直前の保留は、周囲には後退に見えるかもしれません。しかしこの事例では、立ち止まったからこそ、帳簿外の債務や未納の疑いといったリスクに気づくことができました。立ち止まる判断は、後継者自身と会社の将来を守るための重要な選択肢です。
読者へのチェックポイント
- 直近数期分の決算書・税務申告書を、自分の目で確認しましたか。
- 会社の通帳を実際に見て、資金繰りの実態を把握していますか。
- 税金・社会保険料の納付状況を確認しましたか。
- 顧問税理士から直接説明を受ける機会をつくれていますか。
- 現経営者は、質問に根拠をもって答えてくれますか。
- 「今はまだ引き継げない」と言える選択肢を、自分の中に残していますか。
事業承継は、経営権だけでなく債務や保証も引き継ぐ行為です。不安があるときこそ、事業承継士や公的な相談窓口を活用しながら、確かめてから進む姿勢が大切です。
