※本記事は、当社がこれまでに自治体や金融機関から受託して行ってきた事業承継の無料相談をもとに、ストーリー形式で再構成したものです。お話しくださったご相談者とその会社が特定されることのないよう、社名や人名を伏せ、記事に応じて内容の一部に手を加えています。登場する企業・人物は、特定の企業・個人を示すものではありません。
背景:技術は社長の頭の中にしかなかった
首都圏で設備工事業を営むこの会社は、創業から30年を超える歴史を持ちます。大型の設備工事を元請けとして直接受注できる立場を長年守ってきた、技術力の高い会社です。
その技術力を支えてきたのは、70代になる現社長でした。会社を一代で育て上げてきたこの社長は、設計や図面に関わる知識・ノウハウの多くを自分ひとりで抱え込んできました。いわゆる「技能依存型」の経営です。従業員は10名前後を抱える規模になっても、設計・図面に関わる技術やノウハウの多くは、依然として社長個人に集中したままでした。
後継者として想定されているのは、40歳前後と45歳前後の従業員2名です。親族の中には会社を継ぐ人がおらず、社内から後継者を選ぶ「親族外承継」の道を進むことがすでに固まっています。ただしこの2名は、いずれも役員としての経験がありません。経営や財務、金融機関対応、社内のガバナンスといった、経営者に求められる知識や経験がまだ十分でないことが課題として認識されていました。
顧問税理士にも相談してきたものの、対応が十分ではないと感じ、外部の事業承継相談窓口を利用することになったのが、今回の面談のきっかけです。
相談で整理されたこと:株価の高止まりと、後継者に何を引き継ぐかという問い
面談でまず整理されたのは、二つの大きな論点でした。
一つ目は、株価の高止まりです。この会社は会社名義で不動産を保有しており、業績が好調な時期が続いてきたこともあって、株式の評価額が高い水準のまま推移しています。このままの状態で事業承継を行うと、後継者側の資金負担や税務上のリスクが大きくなることが確認されました。
二つ目は、何を後継者に引き継ぐのかという問いです。現社長は「会社は社会の公器である」という経営理念を強く持ち、会社を私物化することを嫌ってきました。単に事業や株式を引き継ぐだけでなく、この経営理念そのものを引き継いでくれるかどうかが、後継者を選ぶうえでの大きなテーマになっていることが、面談を通じて言語化されました。
社長自身、M&Aによる第三者への売却という発想は持っておらず、あくまで社内の従業員に引き継がせたいという意思は明確でした。一方で、具体的にどう進めるかについては、複数の選択肢を前にまだ判断が固まっていない状態でした。
専門家の助言:事業承継計画書という形にする
こうした状況を踏まえ、専門家からはいくつかの具体的な助言がありました。
- 承継の基本方針:M&Aではなく、従業員承継(事業譲渡方式)を軸に据えることが、この会社にふさわしい選択ではないかと提案されました。
- 後継者の一本化プロセス:後継候補の2名を数か月後をめどに取締役に登用し、1年ほどの期間を後継者としての「試用期間」と位置づけたうえで、最終的に後継者を一本化する。この流れを事業承継計画書としてまとめてはどうか、という具体的な進め方が示されました。
- 技能の標準化:設計・図面など、社長個人に集中してきた高度な技能について、手順書や品質基準書を早期に整備することで、属人的な技能を組織の財産として承継できるようになると助言されました。
- 株価対策:退職金の支給や、保有する不動産を会社から切り出すことなどにより特別損失を計上できれば、株価評価を引き下げ、税務上のリスクを回避できる可能性があると説明されました。
- 資金負担の軽減策:自治体の創業支援策や、信用金庫・信用保証協会等の制度を活用しながら、後継者に独立開業させる「スピンアウト型の創業」と事業譲渡を組み合わせる方法も選択肢になり得ると助言されました。これにより承継資金の負担を大きく軽減できる可能性があるとのことです。
- 社長自身の備え:退職金・遺言・保険などを通じた老後資金・相続対策を、事業承継と並行して整えていくことの重要性も指摘されました。
- 専門家体制の見直し:現在の顧問税理士が社長と同年代であることから、事業承継に対応できる体制への若返りを検討する必要性も伝えられました。
担当した専門家の所見では、「技能依存型」「高齢経営者」「親族内後継者の不在」という組み合わせは、この地域でしばしば見られる典型的な課題であるとされています。社長自身は80歳までに承継を完了させたいという明確な意思を持っており、1〜3年以内の短期完了型の計画を段階的に実行していくことが有効だと判断されました。次回の面談は1か月後をめどに設定され、今後は事業承継計画書そのものの立案支援へと進んでいく予定です。
この事例から学べること
この事例が示しているのは、後継者不在という言葉の中身は一様ではないということです。この会社には後継候補となる人材が社内に存在していました。足りなかったのは人材そのものではなく、経営者としての経験を積む機会と、それを裏付ける計画でした。
- 技術や知恵が経営者個人に集中している会社ほど、承継の準備には時間がかかります。手順書化・標準化は、後回しにするほど引き継ぎの難易度が上がります。
- 株価が高止まりしている会社では、承継の方法を検討する前に、株価そのものへの対策(退職金・資産整理等)を選択肢として持っておく必要があります。
- 後継候補に経営経験がない場合、いきなり社長交代とするのではなく、役員登用を経た一定期間の「試用期間」を設け、段階的に権限と責任を移していく設計が有効です。
- 経営理念や会社としての姿勢をどう引き継ぐかは、株式や資産の引き継ぎと同じくらい、後継者選びの重要な判断材料になり得ます。
- 顧問税理士など既存の専門家体制が、経営者自身と同じように高齢化している場合、承継の実務を支える体制そのものの見直しも合わせて検討する価値があります。
事業承継は、後継者を決めた瞬間に終わるものではなく、そこからどのような計画で、どのような順序で進めるかによって、その後の会社の姿が大きく変わります。この事例のように、まず論点を整理し、計画書という形に落とし込んでいくプロセス自体が、承継を現実のものにする第一歩になります。
