※本記事は、当社がこれまでに自治体や金融機関から受託して行ってきた事業承継の無料相談をもとに、ストーリー形式で再構成したものです。お話しくださったご相談者とその会社が特定されることのないよう、社名や人名を伏せ、記事に応じて内容の一部に手を加えています。登場する企業・人物は、特定の企業・個人を示すものではありません。

背景:借入を返し切る目前で直面した「後継者不在」

A社は首都圏で専門資材を扱う卸売業の会社です。創業者の後、創業者の弟にあたる現会長が二代目を継ぎ、約10年前に創業者の息子である現社長(60代後半)が三代目に就任しました。社長は20代で入社し、社歴は約30年になります。

社長が引き継いだ当時の経営状況は厳しく、数千万円規模の借入によって事業を継続した経緯がありました。社長はこの借入を毎年着実に返済し、あと2年ほどで完済が見込める状態まで会社を立て直します。一時は債務超過に陥っていた財務も、直近の期に解消しました。年商は3億円規模、従業員は社長を含めて10名未満という少数精鋭の体制です。

そんなA社の最大の経営課題が、後継者の不在でした。かつては会長の息子である取締役(50代)が後継者候補と目されていましたが、会長の反対と本人の辞退により、親族内での承継は極めて困難な状況になっていました。社長は70歳までの承継完了を希望し、ちらしで知った自治体の事業承継訪問相談に申し込んだのです。

相談の経過:見えてきた「所有と経営のねじれ」

初回の相談で整理された課題の核心は、株式と不動産にありました。発行済株式の9割超を会長が保有し、社長の持分はごく一部にとどまっていたのです。さらに、事業所の建物と土地も会長個人の所有で、会社が会長に家賃を支払う形になっていました。経営は社長、所有は会長という「ねじれ」の状態です。

M&Aによる第三者承継では、買い手が株式を取得するのが一般的であり、株式の大部分を持つ会長の協力が不可欠です。ところが、会長は過去に株式の対価を期待する発言をしていた一方、税理士からは自社株の評価額はほぼ無いと指摘されており、認識のギャップがありました。訪問相談の担当者は、まず直近数期分の決算資料の提出を受けて財務分析と簡易的な企業価値評価を行うことを提案しました。

2回目の相談では、簡易株価算定の結果が共有されました。1株当たりの株価はごく僅少で、株価総額は数十万円程度。前期末に債務超過を脱したことも確認されましたが、帳簿上には経緯の不明な点も残っており、確認が課題となりました。

担当者が特に強調したのは、時間のリスクです。会長は80代。万一相続が発生すれば、株式が複数の相続人に分散し、事業に関係のない株主が生まれる恐れがあります。事業用不動産も同様に共有状態になりかねません。担当者は、試算株価という客観的な数字を土台に会長との対話を早急に持つことを勧め、説得が難航する場合には面談への同席も可能であると伝えました。あわせて、取締役を経営を支える人材として育成する意義を説明し、自治体主催の後継者育成講座の活用も勧めました。

転機:先代との対話が実り、全株式が社長のもとに

3回目の相談で、大きな進展が報告されました。社長は会長との面談を実現し、会長が保有する株式全部を社長へ譲渡することに合意。譲渡契約書の締結に至り、税理士の確認も済ませたのです。これにより発行済株式のすべてが社長の単独所有となり、長年の「所有と経営のねじれ」が解消されました。

会社の今後についても、親族内以外の方法で承継を進めることで会長と一致しました。会長からは「急ぐ必要はない」との意見もありましたが、社長は準備に一定の時間が必要であることを伝えて理解を得ています。こうして社長は、70歳を目途にM&Aによる承継準備を本格的に始めることになりました。

一方で、社長にとってM&Aは初めての経験です。プロセスや専門用語、売却価格や手数料の考え方、情報漏洩リスクへの対処、社内への周知のタイミングなど、疑問は少なくありませんでした。担当者は、仲介機関やファイナンシャルアドバイザーの役割、買い手候補の探索から秘密保持契約、デューデリジェンス、最終契約に至る一般的な流れを説明。売却前に企業価値を高める「磨き上げ」の重要性や、買い手から経営上の主要人物の継続従事を求められる「キーマン条項」の可能性、適切な時期まで検討が社内外に漏れないようにする情報管理の徹底についても助言しました。

会社は社長の経営手腕への依存が大きく、社長不在でも自走できる組織づくりはこれからです。担当者は、磨き上げによる経営良化を進めたうえでM&Aに取り組む「2段階での対応」が現実的であるとの見立てを伝えました。

この事例からの教訓

1. 株式の集約は、あらゆる承継手法の前提条件 親族内承継でも第三者承継でも、株式が経営者に集約されていなければ話は前に進みません。自社の株主構成を正確に把握し、ねじれがあれば早期に解消に動くことが承継準備の第一歩です。

2. 客観的な数字が、当事者間の対話の土台になる 株式の価値をめぐる認識のギャップは、感情的な対立になりがちです。この事例では、簡易株価算定という客観的な数字を土台にしたことで、先代との建設的な対話と合意形成につながりました。

3. 先代が高齢なら、相続リスクを踏まえて早く動く 株式や事業用不動産を高齢の先代が保有したままでは、相続の発生により資産が分散するリスクを常に抱えることになります。「まだ大丈夫」ではなく、時間を味方につける早めの着手が選択肢を広げます。

読者へのチェックポイント

  • 自社の株式を、誰が、どれだけ保有しているか正確に把握していますか。
  • 事業に使っている不動産の名義を確認しましたか。
  • 自社株の評価額を、客観的な数字で把握していますか。
  • 株式を持つ先代や親族に相続が発生した場合、株式がどうなるか想定していますか。
  • 親族内承継が難しい場合の選択肢(M&Aなど)を検討したことがありますか。
  • 承継やM&Aの検討情報が、適切な時期まで社内外に漏れない管理をしていますか。

事業承継は、経営のバトンだけでなく株式や不動産といった資産の移転を伴います。関係者の高齢化が進むほど選択肢は狭まっていきます。課題が見えたら先送りせず、事業承継士や公的な相談窓口を活用しながら、一つずつ手を打っていくことが大切です。