※本記事は、当社がこれまでに自治体や金融機関から受託して行ってきた事業承継の無料相談をもとに、ストーリー形式で再構成したものです。お話しくださったご相談者とその会社が特定されることのないよう、社名や人名を伏せ、記事に応じて内容の一部に手を加えています。登場する企業・人物は、特定の企業・個人を示すものではありません。

背景:代表夫婦の少人数体制で30年、技術と信頼で成り立つ設備会社

A社は首都圏で建物設備の工事と保守・メンテナンスを手がける会社です。法人化から四半世紀余り、個人事業の時代を含めれば30年以上にわたり事業を続けてきました。現在は代表とその配偶者のみの少人数体制で、施工や保守の現場は複数の協力会社と連携しながら回しています。

代表は60代後半。70歳前後をひとつの節目と考え、働き方を段階的に見直していく意向を持っています。しかし、親族に承継を希望する人はいません。2人の娘はいずれも継ぐ予定がなく、長女の配偶者は建築関係の会社に勤めているものの専門領域が異なるため、親族内承継は現実的ではないと代表は考えていました。

代表は若い頃に勤務先で営業と技術の知識を身につけ、独立後は長期間稼働する特殊な設備の保守・メンテナンスに長年携わってきました。かつての勤務先で培った特殊設備への知見と保守技術は、今も業務の柱となっています。大規模なビル設備を中心とした実績と、長年築いてきた顧客・協力会社との信頼関係が、A社の重要な経営資源です。

代表には「自分に万一のことがあった場合、顧客や取引先に迷惑をかけたくない」という強い思いがありました。そうしたなか、ホームページで知った自治体の事業承継訪問相談に申し込んだのです。

相談で整理されたこと

初回の訪問相談では、A社の課題が次のように整理されました。

第一に、後継者不在です。親族内承継の可能性は低く、社内にも候補がいないため、第三者承継を含めた幅広い検討が必要な状況でした。

第二に、代表への属人化です。営業活動、現場管理、顧客対応、特殊設備に関する技術的判断が代表個人に集中しています。旧型設備への対応ノウハウや顧客・協力会社との信頼関係は代表個人の経験と信用に支えられており、承継では技術だけでなく「関係性の引き継ぎ」も課題になります。

第三に、協力会社の高齢化です。主要な協力会社の経営者や技術者も高齢化しており、体制の維持や技術継承に不安がありました。

さらに、取引先・協力会社・同業者のなかには将来の承継候補となり得る企業があるものの、具体的な協議や関係構築はこれからの段階であること、引退後の働き方や生活設計も併せて整理が必要であることが確認されました。

専門家の助言:M&Aを前提にせず、協業で相手を見極める

訪問相談の担当者がまず提案したのは、直ちにM&Aや事業譲渡を前提にするのではなく、既存の取引先や協力会社、事業領域が一部重なる同業者との間で、共同案件・技術協力・現場応援といった「緩やかな協力関係」を試してみることでした。その過程で相手の技術力、顧客対応力、経営姿勢、相性を確認しながら、将来の承継候補として適しているかを見極めていくのが現実的だという助言です。

併せて、代表が持つ技術・資格・顧客基盤・取引先ネットワークや特殊設備の保守に関する知見を棚卸しして自社の価値を客観的に把握すること、70歳前後を節目とした事業承継計画を作成して進め方と優先順位を整理すること、そして第三者承継を具体的に検討する段階に備えて決算書や借入金、実質的な収益力を整理し、事業価値を候補先に説明できる状態にしておくことが提案されました。

面談を通じて、代表自身が承継候補となり得る企業や、これから関係構築を進めるべき相手を具体的にイメージできるようになり、まずは緩やかな協業を試しながら承継の可能性を探るという方向性が確認されました。

この事例からの教訓

1. 「M&Aありき」で始めない選択肢がある 第三者承継は、仲介会社を通じた売却だけではありません。日常の仕事のなかで協業を重ね、相手の実力や姿勢を確かめてから承継の話に進む段階的アプローチは、技術と信頼関係が価値の中核にある会社ほど有効です。関係性そのものが経営資源である場合、その引き継ぎには時間をかける価値があります。

2. 「万一」への危機感は承継準備の出発点になる この事例の出発点は、「自分に万一のことがあれば顧客や取引先に迷惑がかかる」という代表の責任感でした。漠然とした不安を専門家との対話で具体的な課題に整理できたことで、候補先のイメージと当面の進め方が見えてきました。危機感を持った時点が、動き出すタイミングです。

読者へのチェックポイント

  • 親族や社内に後継者候補がいない場合、第三者承継を含めた選択肢の検討を始めていますか。
  • 取引先・協力会社・同業者のなかに、将来の承継候補となり得る相手はいませんか。
  • いきなり譲渡の協議に入る前に、共同案件や技術協力などで相手を見極める機会をつくれますか。
  • 自社の技術・資格・顧客基盤・ネットワークといった強みを棚卸しできていますか。
  • 年齢の節目を見据えた事業承継計画を描き始めていますか。
  • 決算書や借入の状況など、自社の事業価値を第三者に説明できる状態になっていますか。

事業の価値が経営者個人の技術と信頼関係に支えられている会社ほど、承継には準備の時間が必要です。「まだ元気なうちから、緩やかに相手を見極める」──焦って売り先を探すのではなく、自治体の相談窓口や事業承継士を活用しながら、段階を踏んで進める姿勢が大切です。